19世紀の最後の25年間は、スロヴェニア民族も近代政治の時代に入り、主に三つの政治的な流れが出来上がりました。それは、スロヴェニア民族のカトリック教
に忠実な保守派、協会の政治干渉に反対する事だけに固守する自由派、そして工業化と労働者階級の形成に焦る脆弱な社会派です。
20世紀に入る頃、スロヴェニアの政治家達は、ウィーンの議会でクロアチア、セルビアの代表者達と密接な関わりを持つようになりました。
そして、南スラブ人の国という一つの国を維持するために、ウィーンの双頭の鷲が、オーストリア・ハンガリー・南スラブの三つの国の頭になる事を
考え始めました。しかしながら、ウィーンの双頭の鷲は、すでにあちらこちらでがたがたになっている帝国でした。
それは、例えばチェコからの似たような要求に取り組まなければならず、そのためシュタエルスカ、コロシュカ、クラインスカ、ゴリシュカの四つの公国に
区分されているスロヴェニア民族を一つの国に統一し、さらにクロアチア、ヴォイヴォディナ、ボスニア、クロアチア内のセルビア民族にも平等に独立権を
与えるなど、とてもできる余裕など有りませんでした。
このころ、すでに第一次世界大戦の激しい戦いが繰り広げられ、ソシュカ前線ではスロヴェニア人兵士が
多大な血を流したにもかかわらず、スロヴェニアの政治家達は自治権を要求する程度でしかなかった(写真はコバリド(地図A2)にある聖アントンの納骨堂。第一次大戦の戦死者の一部も奉っている。近くの
クルノの地で山間における史上最大の戦いがあった。)。大戦後、何の報酬も与えられない結果となり、スロヴェニア民族は
ウィーンの統治下にあった南スラブ諸民族つまりスロヴェニア、クロアチア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを包括する独立国を望む方向へと向かって行きました。
この頃から、政治関係の書類にも、人々が語り合う言葉の端々にも、「ユーゴスラヴィア」という名称が現れ始めました。
〈写真:コバリドにある聖アントンの納骨堂。第一次大戦の戦死者の一部も奉っている。近のクルノという地で山間における史上最大の戦いがあった。〉
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