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新国家「ユーゴスラヴィア」は、まず1918年10月27日にザグレブ(現在クロアチアの首都)を首府とし、スロヴェニア人のアントン・コロシェッツを当座の国会議長として、「スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人の国」(SHS)と宣言されました。
しかし、イタリアは、まずスロヴェニアに侵入し、その3分の1を占領、またクロアチアのイストラ半島、ダルマチア、アドリア海の島々をイタリア領としました。
クロアチアにたいしては反対側からハンガリーも戦いを挑み、スロヴェニアのシュタエルスカ地方(地図B2−C2)はオーストリア領のドイツ帝国の生き残りが横取りしました。
結果、侵入された国々はセルビアの王冠の下へとたすけを求めて行くに至りました。 | |
1941年、ユーゴスラヴィア王国はヒットラーの軍隊の攻撃で崩壊していきました。リュブリャーナ市(地図B3)とサヴァ川の北部分はドイツが占領し
、リュブリャーナ市の一部とサヴァ川の南部分はイタリアが、そしてこの2国の同盟国ハンガリーがムーラ川(地図D1)に沿った肥沃な平地を占領するに至りました。ドイツは、全ての知識人と聖職者を、また数万に及ぶ農民をも追放し、そのあとにベッサラビアや南チロルのドイツ人移民をを入植させました。そして、学校や協会などの公の場におけるスロヴェニア語の使用を禁止し スロヴェニア語の書物を焼き払い、愛国主義者を監禁、また殺害をもしました。 イタリアはイタリア領のリュブリャーナ市及び「リュブリャーナ州」において、始めの頃はスロヴェニア人の文化的自治権を認め、政治的、経済的スロヴェニアを抱え込む政策に出ました。このため、この地域の 地元政治家達はドイツ、イタリアの占領軍に対する抵抗運動を拒否しました。1941年の夏、ドイツのソ連攻撃後、占領軍は抵抗グループを非合法共産主義組織と断定しました。 共産主義者達はキリスト教社会主義者やその他左翼グループらと共にスロヴェニア民族解放戦線を組織し、パルチザン部隊を編成して侵略軍攻撃していきました。これに反し、戦前の中産階級諸政党は抵抗運動家や左翼解放戦線に 反対し、反パルチザンの国防兵士軍を組織するようになりました。 スロヴェニアのパルチザンは共産党のヨシップ・ブローズ・チトー率いる全ユーゴスラヴィアパルチザン軍に所属 しました。このパルチザン軍は、時間を得るに従って、英国や米国に味方として認められるようになり、 武器の供給も僅かながら増えていくようになりました。 反パルチザンの国防兵士軍は、まずイタリアから、そして後半はドイツからも武器を得るようになりました。この点において、国防兵士軍は東ヨーロッパの反ボルシェヴィキ軍や、1941年以降、とりわけ1943−44年に ドイツより武器供給を受けた数々の反共産主義の国粋主義軍隊と同類でした。 スロヴェニアのパルチザンはドイツ軍やイタリア軍と何度も交戦し、現在も山や森の中に残る墓碑、戦後建てられた記念碑等が当時の抵抗運動の様子を物語っています。 スロヴェニアの国防兵士軍の大半は、終戦後オーストリアのケルンテン州へ逃走していきました。なお、1945年6月、イギリス軍が約1万人の元国防兵士軍から武器を取り上げスロヴェニアへ 帰還させましたが、ユーゴスラヴィア軍の特別部隊は裁判なしに彼らを処刑してしまいました。 | |
![]() セルシュカ・ドリーナにおける抵抗運動戦没者のための記念碑(ヨージェ・プレチニック作) |
![]() 民族抵抗運動は1943年にツェルクノ近くの谷間に病院「フラニヤ」を建て、戦争終結迄発見されなかった。ここでは連合国のパイロットの治療も行った。 |